2009年6月26日金曜日

1月17日 レグ13



ネマ~キファ 684Km(SS308Km)


280kmという長いリエゾンを走ってからのSSスタートになるため、今日のスタート時間はとことん早かった。眠い。
だけど、ついにモーリタニアに戻ってきた!




SSスタートまで1時間半・・・・。
周りを見渡すと、今日までの12日間を戦い抜いてきた競技者達が思い思いの格好で待ち時間を過ごしている。どの顔も疲労の色が濃いけれど、穏やかなオーラだった。ここまで走ってこれたことに満足しているからだと思う。日本人ナビの集団を見つけ、さっそく輪の中に入れてもらい、今から始まる戦いに向けてあれこれと話をした。

モーリタニアといえば、去年、私達が飲み込まれた砂丘群だ・・・・。

だんだん蘇る記憶・・・・。


去年、初めて体験する砂丘越えを前に、あるベテランドライバーから緊張感がなさすぎるとお叱りを受けたことを思い出した。

「そうやって浮かれていられるのも今のうちだ。だが、すぐに泣き顔になるぞ。俺を見てみろ。俺は砂丘群が怖い・・・」


 今は、あの時の彼の「砂丘群に対する恐怖心」を理解できる・・・・。

素直に「私も怖い」と声に出して言える。だが、その恐怖心と、この砂丘群を超えないと、ダカールの海は見られない・・・・。スタート時間が近づくにつれ、段々と緊張感が増してきた。

「あれ?らしくないね~。珍しく緊張してる?」
横川氏が話しかけてきた。
「去年のことを思い出してて・・・。ちょっとね。それより、長谷見さん、やっぱり凄いね!」
長谷見氏は昨日のSSで9位をたたきだしていた・・・・。このままいけば初参戦で15位以内に入れるかもしれない。
「当然だ。彼はレースをしているんだ。完走なんか狙っちゃいない。その日のSSで常にベストタイムを出すことだけを考えている。そこがプロとアマチュアの違いだ」
いつもひょうひょうとしている横川氏の言葉が重かった。すごく良いことを聞いたような感じがした。

そうか、そうだよな・・・・。
どこに目標を置くかでそれぞれの戦い方って変わってくる。私たちは最初から完走しか狙っていないし、順位は後からついてくると思ってふしがある・・・・。でも、いいんだ。この戦い方でもいい。

ひとり頷きながら、私たちは私たちなりにベストな戦い方をしてきたと確信した。
だから、こうしてここにいるのだ。

この一瞬の思考のおかげで緊張感が闘志に変わった!! 絶対に戦いきってみせる!!


 SSスタートから105Km地点。

今日の難所である30Kmも続く砂丘群が現れた・・・・。
GPSで位置や方向を確認しながら砂丘を超えていく。超えると、また砂丘。そして、また砂丘。
・・・・そうやって一つ一つをクリアーしていく。

 友川は見事にラインを読み取り、スタックしないように進んだ。アクセルワークも、シフトの切り替えも完璧で、砂漠の神を見方にしたかのような走りだった。
うなるエンジン音・・・。青い空・・・・。オレンジ色の砂・・・・。それだけの世界が果てしなく続いていた。

 いつしか顔見知りのフランス人チームと2台でコンボイを組むように走っていた。難しい砂丘を超えると、前を行くマシーンからにょっきりと親指を立てた太い腕が現れる。友川の健闘を称える「よくやった!」というサインだ。・・・・パリダカには、いかした人間がたくさんいるのだ!

 その彼らが突然目の前でスタック。慌てて彼らのマシーンを避けるように進むと、そこにも2台のマシーンが砂に埋もれていた。そして、私たちも・・・・。

 モーリタニアの砂は細かい。砂をどかしても、何度掘っても、無情にもサラサラと元に流れ落ちていく。きりがない。掘り続ければいつかは出られる・・・・そう信じるしかない作業だ。

「ねぇ、あの人たち、写真撮ってるよ」

その言葉と、友川の笑顔に救われた。

そうだった。どうせ同じことをするなら楽しまないと損だ。カメラは出せなかったけど、代わりに空のペットボトルにオレンジ色の砂を詰め込んだ。今でも、ここの砂が私の一番の宝物になっている。

1時間近く砂を掘り続け、ようやく砂から脱出した。
砂に埋まったスタックボードを掘り起こし、それを抱えてマシーンを追いかけ、息を切らしながらナビシートに乗り込んだ時、友川が優しく呟いた。

「初めてあんたと2人で砂に勝ったような気がする。」

・・・・私は無言でうなずいた。



 今日のステージでは、砂漠の神は他の競技者達にも様々な試練を与えたようだ。

砂丘群を超えてすぐに、同じ三菱インターナショナルチームから参戦しているタイのポンサワン氏とトゥン氏が止まっているのを見つけた。

「去年の君たちと同じだ。クラッチにトラブルが起きた」
いつもニコニコしているナビのトゥンさんが、埃だらけになった顔をしかめながらそう言った。
昨日はSSを2位でゴールしたと嬉しそうに報告してくれたのに・・・・。いつも私たちを気遣ってくれていた仲間が、ダカールを目の前にリタイヤしてしまう?
去年感じた悔しさが体中に駆け巡った。
・・・・不覚にも涙を抑えることができなかった。

「俺より先に泣くな。さぁ、行きなさい。この先は楽なはずだから・・・・。着いたらここのGPSポイントを監督に伝えるのを忘れるなよ」
彼らの手をギュッと握りしめながら、
「わかってる」
としか言えなかった。

しばらく無言・・・。

 そしてSSの出口・・・。絶好調だったはずの長谷見氏のマシーンが止まっている。

「いやぁ~、まいったよ。2駆になっちゃってさぁ。砂漠で3時間止まってたよ」

・・・・・砂漠の神は本当に気まぐれだ。


レース12日目。残すところ後2日・・・・。

今日の順位は67位。総合は54位。

毎日を大事に積み重ねていたら、ここまでこれた・・・・。

2009年6月24日水曜日

1月16日 レグ12

トンブクツウ~ネマ 585Km (SS577Km)

 昨日のブリーフィングで言われていた通り本当にきついコースだった。
その昔、モーリタニアからマリへ密入国者を強制送還する時に使った道を逆走する。

 前半は強烈な暑さの中、例のフェシュフェシュに悩まされた。網の目状に入り組んだピスト。視界は最悪。キャメルハーブが150km続く。スピードメーターはずっと時速30kmくらいのところを指している。

 あまりにも辛くて、心の底から試されているんだと感じていた。
精神力と体力だけではない・・・・。すべてにおいてあらゆる方向から試されていると真剣に思っていた。
辛かった。自分に負けたたくない。とても大変なことだったけれど、ひたすら我慢し、疑いを抱かず、ゴールすることだけを考えていた。

 私よりずっと辛いはずの友川も、
「集中!」
と、何度も叫びながらハンドル握っている。

 同じ時間、同じだけ戦っているはずなのに、友川は私よりずっと完成度の高い戦い方をしているような気がする。次々に現れる様々な障害に対しても、無慈悲に過ぎていく時間に対しても、友川は全身全霊の力を振り絞ってコースを攻略していく。

 こんなにかっこいい友川の横顔を知っているのは私だけなのでろう。

 戦い続けて残り100km・・・・。すっかり暗闇。
友川はそれまで踏みたくても踏めなかったアクセルを思い残すことのないように踏み続けている。
切なくなるくらいピリピリと、そして涙が出るくらい素晴らしい走りだった。

 今日も笑いながら夕食をつつけるのは、友川の強靭な精神力のおかげだ。

2009年6月23日火曜日

1月15日 レグ11

キダル~トンブクツウ 557Km(SS568Km)

 マリ北部のサヘル地帯を通過するコース。

キャメルハーブ(ラクダ草)の密集地が出てきた。名前は可愛いが、これがなかなかの曲者。根っこが固く盛り上がっているためスピードが出せず、マシーンは激しく揺れ、首も、腰も、お尻も、かなりの衝撃を受け続ける。体中に力を入れていないと、体のどこかが崩れてしまいそうだ。

・・・・キャメルハーブとの戦いは、何十キロも続いた(ToT)
 
 お尻がしびれて、感覚がなくなったころ、ルートブックに「砂の海」と書かれたポイントが出てきた。 いつの間にかキャメルハーブが姿を消している・・・・。

ここは本当に「砂の海」だと思った。新しい風が作り上げた砂の波の中を、穏やかな弧を描きながら進む。そんな感じだ。美しい。 お尻に伝わる砂の感触も柔らかい・・・。
 
このコースは、オーガナイザーからキャメルハーブを抜けた競技者へのささやかなプレゼントなのだろう。 素直に感謝。
  
 
 後半戦の友川は素晴らしい走りをしてくれた。
アクセルを踏めるところは、いつもより1センチ深くアクセルを踏んでくれたように思う。つまり、無理のない程度に速かったのだ。事実、今日の順位は66位。…86位の見間違えかと何度も見直したくらいだ。感動しすぎて足が震え、しばらくリザルトの前から動けなかった。


友川に順位を伝えると、意外にも照れくさそうに笑っただけだった。
それもまた、かっこいい。

2009年6月21日日曜日

1月14日 レグ10


オクラン~キダル  537Km(SS無し)

 朝焼けが始まる頃、テントから顔を出すと、私たちのマシーンは何事もなかったかのようにそこにあった。
 作業をしてくれたメカニック達はいつものようにカミヨンの屋根の上で寝ている。私は彼らに向かって深々と頭を下げた。
「皆さんのお力を無駄にしないよう、絶対に完走してみせます!」

 さて、今日のスタートはいつもと違った。
パリダカ創始者である故ティエリー・サビーヌを偲び、彼が生存中にテレネー砂漠で行った“一斉スタート”を再現したのだ。

 まず、2輪が横一線になってスタート。その10分後に4輪が10台ずつ、5分おきにスタートしていった。その迫力に、その緊張感に心臓がバクバクしている。

 他のマシーンとともにスタートラインについた時のドキドキ感も、スタート合図の発煙筒が光った時も、友川が思い切りアクセルを踏んだ瞬間も、ギャップを避けきれずにマシーンが大きくジャンプした時の空中の感覚と恐怖も、そのどれもが興奮と緊張の解けない中で起きたことだったので、夢の中での出来事のようだった。自分の体験として語ることができるようになったのはかなり後になってのことだ。体験がプツプツと醗酵し、熟成した感じだ。
 完全なオフロードコースだったが、ドライビングも、ナビゲーションも完璧(^-^)V
 
 こうやって1日1日を重ねていけることがとても嬉しい。
今日という1日の出来事をきちんと正直に積み重ねていけば、ゴールは逃げたりしないだろう。

2009年6月20日土曜日

1月13日 レグ9

アガデス~オクラン 315Km(SS283Km)


 レース中、私の左足の下から異音が響いてきた。

「ギギギギッ」「ゴゴゴゴッ」とだんだん激しさを増し、耳に音が絡んで落ち着かない。
 
 今日はマラソンステージなのでエアメカは来ていないが、オクラン到着後、サポートカミヨンに乗っているメカニックに相談してみることにした。

「ミッションだ。すぐに交換しないと、明日このまま走っていたらリタイヤになるだろう」
え~っ、思っていたより痺れる状況・・・・。
砂漠の神は、なぜ次から次へと試練をお与えになるのだろう・・・・。

“リタイヤ”という4文字が頭の中で増殖しかけたが、幸いにも彼らのカミヨンにはスペアのミッションが積んであるそうだ。時間のかかる作業だというのにメカニック達は快く引き受けてくれた。 心の底から感謝。

 パリダカは競技者にもマシーンにも過酷なレースだ。毎日何かにぶつかる。ぶつかるから何らかの解決方法を探り経験値を上げていく。
そうやって毎日少しずつ成長し、その分だけ完走に近づくのだろう・・・・。

2009年6月19日金曜日

1月12日 休息日


 競技者にとっては体も心も休まる1日となった。
キャンプ地では前半戦を戦い抜いてきたマシーンを整備するメカニック達が忙しいそうに仕事をしている。皆、日に焼けて顔が真っ赤だ。私はというと、昨夜はチームが借りてくれたビラで堅い床の上に雑魚寝したせいで熟睡できなかったせいで、炎天下でボーッとしていた。テントを張ったが暑くて中に入れないのだ。
 
 お昼過ぎ、ルートブックの配布などのアナウンスがいつ行われるかわからないので、私はオフィシャルサイトとテントの間を何度も往復した。歩き出すとすぐに物売りに囲まれる。彼らの笑顔は最高だが「ジャポネ!ジャポネ!」としつこくまとわりついてくる。
 容赦なく照りつける太陽と物売りにエネルギーを吸い取られいく。アフリカは太陽も人もとても暑い。

 前半戦の総合順位は77位!

2009年6月18日木曜日

1月11日 レグ8



タウア~アガデス 828km(SS575Km)

 全体的にフラットなハイスピードコースだったが、ところどころに砂丘が現れ、パリダカらしい景色の中での戦いだった。砂丘越えのテクニックを磨くにはちょうど良い感じだった。
 砂丘の向こうがどうなっているかは越えてみないとわからない。砂丘のトップで止まるわけにはいかないので超えた瞬間にどう進むかを判断しないとならない。友川と私が選んだライン取りが同じでないともたついてしまう。ラインの楽なほうに進んだとしても進むべきカップを無視できないので、砂丘越えは奥深い。

 砂丘越えのリズムをつかんだ友川は、練習だからと言って1メートルにも満たない小さな砂山の方にタイヤを向けた。
・・・悪い予感。
そして、的中・・・。

 埋まったタイヤを掘り、デフに引っ掛かった砂を取り除いてスタックボードを使えば簡単に出れそうな場所だったが、意外に砂が柔らかく、タイヤは無情にも砂をかくだけだった。数十センチ動いただけで再び同じように埋まっていく。 さっきより深くうもれたかも・・・と思いつつまた砂を掘っていると、レンジローバーで参戦しているプライベートチームが止まってくれた。
「ごめんよ。困っている仲間達を助けながら順位に関係なく走るのが俺のパリダカ哲学なんだが、俺のマシーンじゃ助けられそうにない。悪いけど先に行く」
 彼の言葉が心に響く。パリダカを愛し、純粋に楽しみ、そして、砂漠を知った者の言葉の音だと思った。かっこいい。

 レンジローバーのエンジン音が消えぬうちにカミヨンが引っ張りだしてくれた。感謝。

 その後は快調に進んだのだが・・・・。

CP3を過ぎ、ルートブックではカップ50~60に向いて走るよう指示されていた。今走っている方向はカップ10~20だ。友川にもっと右の方向に進むように指示したが、
「あっちは轍が少ないし目の前に走りやすい轍があるのだからそれを追えばいい。いつか合流するでしょ」
と、返事が返ってきた。一瞬、ムカッとしたが、確かに右のルートよりこのルートのほうが轍もはっきりついている。次のコマ図までの区間距離は5Km程だったし、路面は全くのフラットだったので後からカップを合わせれば問題はないだろうと判断。友川の言うままに走らせた。

 しかし、5km走ってもカップは50にも60にも向かなかった。
「やっぱり引き返そう」
「・・・・・・」
「これ、きっと迂回コースだよ。戻るか、それが嫌なら今から右に向いて走って」
「・・・・・OK。信じる」

 戻る途中、カミヨン2台とすれ違がった。
友川は何か言いたそうだったが気にはせず、オンルートを見つけることに専念。

 はるか向こうに、カップ50方向に向いてオンルートと思われるルートを走っているカミヨンを発見した。
「あっちだ!あっちに向かって走って!轍なんかいいから!」
「これでパンクしたらあんたのせいだからね!」
「わかったから!あっち!」

 轍のまったくない路面を走る不安と快感を同時に味わう。それは友川も同じだったようだ。

 オンルートに復帰し、本当に何もない平原を地平線目がけて時速140キロ以上で走り続けた。

まこねぇ、かっこいい!さっきのことはなかったことにしてあげよう!

 太陽が西に傾き出し、コントロールに近づくにつれ路面の様子が変わてきた・・・。 ガレ場に吹き溜まりの砂。スピードが出せなくなってきた。

 コントロールまであと10kmというところに壁のように立ちはだかる大きな砂丘が現れた。
コマ図によると砂丘と砂丘の間に岩場がある。トリプルコーションだ!!!
 
 友川はひるむことなく果敢にアタック。
一瞬いけるかと思われたが、2つ目の砂丘のトップで止まってしまった。
 
 再度アタックするためにマシーンを後退させ、私は空気圧を落とすためにマシーンを下りた。
空気圧を1.1まで容赦なく落とし、そのまま砂丘のトップまで歩いて登り、友川のアタックしやすそうな轍の浅いところを選び、そのラインの上に立った。自分を目がけて走るように指示をすると、助走距離をぎりぎり確保した友川が壁のような砂丘にアタック。・・・・その一部始終をドキドキしながら見守る。

 2度目のアタックで見事成功!美しい!
思わず歓声を上げた!

 オーガナイザーの仕掛けたトラップをクリアーすると、脳内にエンドルフィンが充満するのか、疲れなんか一気に吹き飛んだ。ドライバーにとってもナビにとっても最高に嬉しい瞬間だ!心の底から「イェーイ!」
 
無事にコントロールを抜けるとすぐにアルリットという町に入った。ニジェールの北側に位置するこの町には、今回の民族紛争の源であり、「青い種族」と呼ばれる誇り高き砂漠の戦士「トアレグ族」が多く住んでいるそうだ。当初、この町もキャンプ地になっていたのだが、危険を回避するためにこの町は通過するだけになった。しばらく行くとガソリンスタンドがあった。数台が給油していたので私たちも休憩がてら給油することにした。すぐに物売りが寄ってくる。手持ちがないので何も買えないと断ったが、なかなか立ち去ろうとはしなかった。


「おまえはシノワ(中国人)か?」
「ジャポネーズ(日本人)だよ」
「それはどこにある?遠いのか?」
「遠いよ。たくさんの海と山を越える」
「俺はトアレグだ」

青い民族衣装を着ていないので胡散臭かったけど、
“戦士”というフランス語がわからないので、

「素晴らしい」

と言うと、彼はニッコリ笑い、

「記念にこれをやる」

と言って、銃の弾で作った首飾りを手渡してくれた。

「これはトアレグのお守りだ。神がお前を助ける」



 埃だらけの物売りの砂漠の戦士にお礼を言い、そこから240km南下。アガデスの町に入った。

アガデスはニジェールの中央部の代表的なオアシスとして16世紀中頃から栄えた町。

1991年(第13回)まではパリダカの勝敗を握る重要なキャンプ地として知られている。



・・・・いよいよ明日は、そんな歴史のある町での休息日だ!

 ここまで無事に来れたことを砂漠の神に感謝した!

1月10日 レグ7


ムナカ~タウア 396km(SS389km)


 リエゾンに設定されていたコースコースが、昨日のコース変更によりSSに変わった。

 「リエゾン=楽なコース」という私の中の公式が見事に打ち壊された日でもあった。

 作られたばかりのころはきっと快適な道路だったに違いない・・・・。しかし、アフリカの過酷な環境がその多くを削り取り、穴をあけ、または砂で埋まり・・・道としての機能を失いつつあるような舗装路が今日のコース。コーションだらけの悪路だ。ルートブックにはないコーションもあった。そうなると思ったようにアクセルを踏めない。リズムの取りづらいコースに流石の友川も苦戦していた。

 後半戦は砂丘こそ出てはこなかったが、ふかふかな砂の上での戦いになった。やはり思ったように距離が稼げない。


「昨日のSSの後に、このリエゾンを走らされていたらと思うと・・・・」

「ぞっとする~~~」


 たったの389kmだったが、その悪路ゆえ、体力も精神もひどく消耗した。
無事にゴールした友川の顔にも疲れが色濃く表れている。それでも、友川は今日のコースを75位で走り、総合順位も72位に上げている。決して早くはないが、確実に路面を捉え、自分にもマシーンにも無理をさせない走りだった。


 無理をしない・・・。

それは私たちが着実に順位を上げている理由だ。

2009年6月17日水曜日

1月9日 レグ6

ガオ~ムナカ 340km(SS332km)

 レース6日目。

 当初予定されていたルートは、ガオからムナカまでの736kmだった。
しかし、民族紛争によりニジェール国内の情勢が悪化したため、オーガナイザーは安全を優先し、コースを大幅に変更した。

 そのため、レグ6をガオからムナカまでの332km。レグ7をムナカからタウアまでの396kmとし、当初の予定を2日に分けて戦うことになった。

 SSの距離が短くなった分いくらか気持ちも楽になり、友川は快調というリズムに乗ってハンドルを握っていた。スタートから170km地点からルートは完全にオフロードに変わったが、友川はリズムを崩すことはなかった。

 ついに会心の走りでカミヨン3台と4輪も3台抜かす!!

「まこねぇ、ブラボーッ!」

 250kmを過ぎてもこんなに調子よく走っているのだ。今日は順位を上げられるだろうと期待していた。

 ところが、260kmを通過したあたりで痛恨のスタック。せっかく抜かしたさっきの6台が、あっという間に通り過ぎて行った。
「これがレースってもんさ!」
「この砂掘りがなかったらパリダカの楽しみが減るってもんよね!」
2人で負け惜しみを吐きながらタイヤの空気を抜き、手も足も使って砂を掘った。

 それでもブリーフィングに間に合う時間にキャンプ地に着いた。
こういう日は夕食も楽しめる。パリダカのご飯はオーガナイザーがフランス人だけあって、ワインまたはビール、前菜、メインディッシュ、デザート、コーヒーと、なかなか豪華だ。
 
 今夜は篠塚氏と増岡氏の席にお邪魔して、一緒にチキンをつつき、ワインを味わった。
篠塚氏は今日のSSをトップで走り切ったそうだ。とても満足そうにしている。同じ日本人として誇らしい! 

 私たちはというと、スタックのロスタイムがあったが、なんと、74位!

1月8日 レグ5

トンブクツウ~ガオ 424km(SS415km)

 今日は固い砂漠の路面を走るハイスピードコース。
走りやすい路面だったので、友川もうまくリズムにのってレースを楽しんでいた。
何のアクシデントも起きず、まだ日の明るいうちにゴールすることができた。

 実はこの5日間、どうもシートがしっくりせず、2日前から去年の砂丘超えで痛めた首が悲鳴をあげていた。腰痛もひどくなっていて食事の時に椅子に座っているのも辛かった。
 ヘルメットがヘッドレストに当たる分、体が前屈しているので、ヘルメットの重さを支え切れていなかったのかもしれない。
 まだ時間がたっぷりあったので、担当メカニックにお願いして少しだけシートを後ろに倒してもらった。

 早速座り心地を試した。明日は大丈夫そうだ!


 

2009年6月15日月曜日

1月7日 レグ4

ナラ~トンブクツウ 666Km(SS 658Km)

 今年最長の658kmというSSは、「過酷」という文字にぴったりと当てはまっていた。

 スタートして17km地点。
前を行くカミヨンの巻き上げるダストで視界をさえぎられ、思うような走りができない。何度か現れては再び合流するというようなY字ピストが何本かあったので、少しでもダストを避けようと、次に出てきたY字を左にとることにした。
 コマ図上には何の指示も出されていない地点だった。すぐに合流するはずだ。
だが・・・。1kmほど走っても合流する様子がない。カップもだんだんそれていく。
ミスコースを恐れ、来た道を戻るよう指示した。・・・・・引き返す勇気も大切なのだ。

 数分後、オンコースに復帰。

 すると、一息つくまもなくGPSにまたまた問題が起きた。
昨日インプットしたはずのGPSポイントが全て消滅していたのだ。
・・・・しばらく悩んだが、このままではレースにならない。
友川に事情を伝え、しばらく時間をもらうことにした。
 
 逸る気持ちを抑えながらルートブックからポイントを拾い出し、次々に入力していく。

その間にも数台の4輪やカミヨンが次々と通り過ぎていった。

 その度に気持もインプットしている指も震えるくらいに焦り出し、結局半分すんだところで、
「後は走りながらできるから・・・」
と言って、再スタートしてもらった。

 このルート選択ミスとGPSのトラブルで15分に以上ものタイムロスを友川に与えてしまった。
悔しさが込み上げてくる。
(大丈夫!今日のレースは始まったばかりだ。ナビに集中するんだ・・・・)
自分で自分を強く励まし、ルート指示の合間に、勢いよく揺れるナビ席で残りの入力作業をこなした。
・・・・自分の指と動体視力に感謝!
 
 後半戦。
そんな初っ端のトラブルを忘れてしまうくらい、いくら距離を重ねても、コントロール地点には辿りつかない。
とにかく轍が深い。思ったようにスピードを上げられず、我慢に我慢の連続だった。

 西日に目を細める。
アフリカの大地に太陽が沈みだすと、暗闇に変わるまではあっという間だ。
夜間走行は昼間の何倍も危険度が増す。視界が一気に狭まり、路面の様子を把握しにくくなるからだ。
 それでも、感のいい友川はこの3日間でマシーンを自分のものにしていたし、轍もうまく避けていたので、私は安心してナビゲーションに集中できた。
 暗闇の中で数台のマシンがスタックしてもがいている。その横も注意深く通り抜けることができた。ほんの数十センチずれただけであんな風にはまってしまうのだ。明るければ決して選ばないような路面も暗闇に紛れ込んでしまい、一度はまると抜け出るまでに時間がかかる。去年、いやというほど経験しているので、轍には惑わされないよう慎重に進んだ。

 いよいよ残り100kmを切ると、車内に入り込んでくるダストの様子が変わった。
息苦しさが増す・・・。
ライトに映し出される路面も妙に白っぽい。
「・・・!」
フェシュフェシュと呼ばれるパウダー状の砂だ。
「ここ、ものすごくフカフカだよ!轍!気を付けて!」
そう言った途端に、私たちのマシーンは見事に捕まってしまった。
 
 降りてみると、膝の上まで砂の中に埋もれていく・・・・。
小麦粉の中にいるみたいだ。
こりゃ、時間がかかりそうだ。
スコップとスタックボードを降ろそうとマシーンの後ろに回ると、後方からエンジン音が響いてきた。
「カミヨンだ!引っ張ってもらおう!」
そう言って走りかけると、足がうまく抜けずにフェシュフェシュの中に顔面から倒れこんでしまった。
「うげぇ・・・・息ができないよぉ」
起き上った私の顔を見て友川が爆笑している。止まってくれたのは三菱のサポートカミヨン。ドライバー達も苦笑を隠し切れていない。
「おー!かわいそうな あけみぃ。ぶははっ」
「大丈夫か?がはははっ!」
「ははははっ!フェシュフェシュで化粧でもしたか?」

・・・・ここから出してくれるなら、好きなだけ笑ってくれ!


 長い長い、長い戦いの後に私たちを待っていたのは、3日ぶりに会うメカニック達の優しい笑顔だった。皆が口々に、
「よくやった!」
「上出来だ!」
「今日はゆっくり休め」
などと、ほめてくれる・・・・。嬉しかった。ようやく競技者として認めたもらえたような気がしたからだ。満足!友川の笑顔もこの長いSSを走り切った達成感でピカピカに輝いていた。

 スタート直後のロスタイムにもかかわらず、今日の順位は82位。
総合では88位でゴールすることができた!

   
 

1月6日 レグ3 

カイエ~ナラ 594Km(SS552Km)

 今日のSSの前半戦は、昨日と変わらない悪路だった。相変わらずのダストと暑さに悩まされた。
 後半戦は木が減り、サヘル地帯と呼ばれる半砂漠地帯でのトリッキーなコンパス走行が要求されたが、今日の私もなかなか冴えていて、オーガナイザーの用意した罠にはまらずにすんだ(^^)v
 
 友川はというと・・・・、彼女のドライビングは相変わらずだ。
リズムに乗ってとても順調にルートをこなしている時と、集中力が途切れてしまう時とがあり、特に長距離の日にはこれが何度となく繰り返される。
 それでも全般的にとても慎重だし、我慢のドライビングが得意なので、車への負担が少ない。他のチームにはパンクなどの細かいトラブルがあったらしいが、友川はまだ1本もバーストさせていないし、マシーンも無傷だ。10時間以上もの悪路を走ったにも関わらずエアメカの来ない今日も無事にキャンプ地に着けたのは、友川のおかげなのだ。

明日も無事にキャンプ地につきますように!

1月5日 レグ2

タンバクンダ~カイエ 595Km(SS505km)

 2番目の通過国であるマリ共和国に入った。
今日はハイスピードでの戦い。ドライビングテクニックと集中力が勝敗の鍵を握る。

 前を走るマシーンが巻き上げるダストで視界が悪いうえ、容赦なく照りつける太陽で焼けるように暑い。車内の温度は50度を超えているに違いない・・・・。とにかく暑い。

私たちは脱水症状を恐れ、窓を開けて走る。

・・・・悲しいくらい息苦しかった。

 
 スタートから順調だったにも関わらず、200km走ったあたりでGPSの機嫌が悪くなった。コマ図のGPSポイントを通過しても次のポイントまで自動で進まなくなった。通り過ぎると矢印が後ろ↓を指してしまう。次のポイントをルートブックから拾い出し、揺れるマシーンの中、手動で入力しなければならなくなった。ジェットコースターに乗って手のひらサイズの計算機で計算をさせられるような作業といえば簡単に想像がつくかと思う。

 ラリコンの操作やルート指示の合間の入力作業・・・・。その上、夜間走行に入ると友川のドライビングに支障がないようにルートやダストの具合でフォグランプのハイとローを手元のスイッチで切り替えるという何とも複雑で厄介な作業を何百回と繰り返した。

 無事に今日のコースを走り終えたときには、目も、肩も、腰も、神経も、体中のありとあらゆるパーツが「もう駄目だーっ!」と悲鳴をあげていた。久々にエネルギーを使い果たした感じだった。できることならこのまますぐに心も体も緩めてしまいたかった。しかし、今日はエアメカの受けられないマラソンステージだ。マシーンの整備を自分たちの手で行わなければならなかった。今、ここで緩めてしまったらもう一歩も動けなくなるに違いなかった。休まず動き続ける方がいい。

 幸い友川の慎重な走りのおかげで増し締めや燃料補給などの簡単な作業にとどまった。簡単といっても燃料補給は手漕ぎで給油しなければならないので時間がかかった。

この後にようやくナビゲーターとしてやらなければならない作業を始める。ルート指示だけがナビの仕事ではないのだ。

 パリダカのビバーク地はかなり広い。

各チームのテントサイト、オフィシャルサイト、競技者が食事をとるレストラン、メディアテント、医療テントなどが不規則に並んでいる。その中から今日のリザルトが張ってある場所を探しださなけらばならない。明日のスタート時間を割り出すためだ。・・・・・今日は体を引きずるようにズルズルと10分以上捜し歩いた。それから、ルートブックの何か所もの書き直しとチェック。メカニックへの報告書・・・・などなど時間のかかる作業ばかりを黙々とこなす。

・・・・結局、全てをやり終えて自分の寝袋に潜り込んだのは夜中の2時を回ったあたりだった。

・・・疲れた。

発電機の「ガーッ」という音、友川の寝息・・・・。

体中が重い。

・・・・目を閉じるとすぐに睡魔が襲ってきた。

睡魔の淵に落ちながら過った言葉。

「パリダカって、何?」

今はいいや・・・・。

・・・・ダカールの海を見たらきっと自分なりの答えが見つかるはずだから。

2009年6月13日土曜日

1月4日 レグ1

ダカール~タンバクンダ 578km(SS275km)

 レース初日。
やはり緊張している。朝食に何を食べたかも思い出せないくらいだ。
緊張するとおトイレに行きたくなるというのは本当だ。念のため、もう一度行っておくことにした。スタートまで15分ある。おトイレまで歩いて往復5分だとしても余裕だ。

・・・・・しかし、アフリカは侮れなかった。

個室から出ようとしたら。
「・・・・・あれ?」
ドアが開かない。
回転式のロックだったので右に回したり左に回したりを繰り返してみたが、ドアが開かないのだ。
「うそでしょーっ!!!!」
時計を見るとスタートまで10分を切っている。
ドアをどんどん叩きながら、英語、フランス語、日本語で
「誰か助けて!」と叫び続けてみたが、誰も来ない・・・・。


頭の中には、①ドアをよじ登る②ドアを蹴り壊す、の2つの選択しかない。

だって、スタートに間に合わなかったらどんなことになる?
怖くてその先は考えられなかった。とにかくここから脱出するしかないのだ。
「あ~~っ、も~~~っ!!!」

 パニック寸前、誰かの声が聞こえた。
「落ち着いて!そこのドア、右に2回ロックを回したら開くから!」
私には天使の声に聞こえた。
2回?と思いながらも言われたとおりにすると、ドアは簡単に開いた。

「ありがとう!このお礼、今度会ったときにするから!」
そう言いながら猛ダッシュ!
で、ナビ席に戻ったのはスタート3分前!

 こんな信じられないハプニングってある?私は笑いがこらえきれない。
おかげで、私の緊張はすっかりほぐれていた。

 さて、いよいよスタート!気を引き締めなくては!

 16キロ地点にある町中のポジウムを通過すると、206kmのリエゾンだ。それから今年初めてのSSへと続く。友川も私も、このリエゾンの間でマシーンに慣れないとならない。

 恒例の儀式でもあるスタート前の固い握手。2人ともスタートできる幸福感を満喫しているせいか、車内の雰囲気は昨日の重いものと打って変わって、心地良かった。

 レグ1のSSはサバンナ独特な地形の中、村々を通過する難易度の高いナビゲーション走行が強いられた。村には何本ものピストが迷走したようにひかれており、村の出口でどのピストを選ぶか、どれが正しいのか、カップを見ながら判断しないとならない。

 

 CP1を通過後、どういうわけかオンコースよりかなり左のピストを走っていたようだ。どう見ても競技ルートではなかった。GPSでは次のポイントにしっかり矢印↑が向いていたので、コマ地図を無視して40キロほど走る。
 
 思っていた通り、CP2の手前でオンコースに復帰した。
正直、復帰するまでの間は心の中がピリピリと苦かった。今日みたいなコース取りはミスコースというほどでもないが、危険を伴う場合が多い。初日から結構しびれた!

明日からは、もっともっと気を引き締めなければ!

 初日の順位は86位。 友川はすぐにメタルクラッチにも慣れ、今日のコースを難なくこなした。

    ポジウム・・・競技車両をお披露目する台

     リエゾン・・・移動区間。

     SS・・・・・・・・競技区間。ここの通過時間で順位が決まる。

     CP・・・・・・・・コントロールポイント。
            1日に何か所か設置されていてる。
            通過しないと数時間のペナルティーが加算される。

     

2009年6月12日金曜日

1月3日 ダカール港

 フランスでの車検後、全ての競技車両がダカールまで海上輸送されていたので、それぞれのマシーンを港まで引き取りにきた。「あんたはここで待ってて」と言って船の中に消えた友川を潮風にさらされながら2時間ほど待っていた。

決して爽やかな潮風ではない。生臭いぬったりとした嫌な潮風だ。

どこにいても落ち着かない。どこで待っているのが正解なのかさえ分からなかった。

 ようやく船倉からエンジン音が響き上がってきた。
篠塚氏や増岡氏のマシーンに手を振り、50台以上も見送ったくらいにようやく友川の操るマシーンが姿を現す。心に光が差し込む感じってこういうことだ。あれだけどんよりしていたのに一気にワクワクした気持ちに変わった。

 去年リタイヤした後、マシーンの引き上げに時間がかかったため、砂漠に潜んでいた盗賊にエンジンとミッション以外のほとんどのパーツを盗まれた。(お気に入りだった天才ナビゲーター故ムシュマラ氏の名前が刺しゅうされていたナビシートも、非常食用に残しておいたドライソーセージも、だ!)

 エンジンがあればなんとかなるし、友川にとっても思い入れの大きいマシーンということもあり、三菱インターナショナルチームのメカニックを担うフランス・ソノート社にお願いし、ボロボロだったマシーンを再製してもらった。ソノート社のノウハウが詰め込んであるマシーンと言っていい。新車みたいにピカピカだ!
 

 スタッフから明日のランチパックなどをひったくるように受け取り、ナビ席に飛び乗った。

「カラーリング、かっこいいね!」

「・・・・・・。」

「うわっ、新しいラリコンだ!うれしーっ!」

「・・・・・・。」

・・・・あれ?なんだか空気が重い。

いつもマシーンを「うちの子」とか「この子」と表現している友川のほうが新車同様に生まれ変わったマシーンに興奮していると思っていたのだが・・・・。

「どうかした?」

「・・・・・・。話しかけないでっ!!メタルクラッチ、初めてなんだよ!」

 友川は、クラッチのつなぎのタイミングに全神経を集中させている。ピリピリしている。

仕方ないので、私は私で、友川の神経を逆なでしないよう、ラリコンやGPSのセットアップをすることにした。

・・・・無言って、重い。

 15キロほど走り、チームから指定されていたガソリンスタンドを見つけた。簡単な車両チェックを行い、ガソリンを満タンに入れ、ホテルの駐車場へと急ぐ。

 オーガナイザーの指示通り、夕方の5時までにパークフェルメとなる車両保管場所にマシーンを持っていかないとならなかったので、残り少ない時間でのシート合わせ、荷物の詰め込み、スポンサーのステッカー貼りなどの細かい作業を全て終わらせなくてはならない。私たちの担当メカニックになったマークにも手伝ってもらいながら、どうにかやるべきことは終わらせた。友川の張りつめた緊張感もいくらかはほぐれたようだった。

 6時半から、競技者出席のブリーフィングが始まった。

オーガナイザー代表のオリオール氏が壇上に上がると、ものすごい歓声が湧き起こった。その存在感は圧倒的で、本物のカリスマのオーラを感じた。彼に憧れてバイクで参戦するライダーが多いのもうなずける。

 この人の旗のもと、明日からの16日間、私たち競技者はアフリカの大地で様々なドラマを演じることになる・・・・。

2009年6月11日木曜日

1月2日 午前10時

 きっと毎年のことだと思うが、人検には本当に時間がかかる。チームや車両ごとに時間が配分されているにも関わらず、人検会場には身動きができないほど人があふれていた。
 ライセンスなど各ブースで必要事項をチェックしてもらい、すべてのブースを回り右手首にコンペティター用のリストバンドをはめてもらうまでに3時間を要した。この黄色いリストバンドがコンペティターの証!これで正式にパリダカに参加する許可が下りたことになる。

 途中、篠塚健次郎氏に出会った。やはり、ヨーロッパでも彼の人気は高く、あちこちでサインを求められていた。氏との出会いは90年のオーストラリアンサファリだったが、その時から彼への印象は変わらない。王者なのに威圧的ではない。どこかとぼけているようで、それでいてきちんとした堅さを持っている。一歩引いているようで引いていない。そんな不思議な魅力のある人だ。今年こそ悲願の優勝を決めてもらいたいと強く思う。

 さて、今年はワークスチームのプロト廃止や、GPSの規制、前半戦と後半戦にまとめてもらっていたルートブックも前日に次の日の競技分しかもらえない、などの大幅なレギュレーションの改定があった。知ってはいたものの、受け取ったルートブックはA4からB5に縮小され、GPSポイントを得るための地図は削除されていた。コマ地図のところどころに書き込んである緯度経度は「何秒」の部分が記されていない。ということは、これによって確実に誤差が出るということだろう。資料として大まかなコースをご丁寧にも3ミリ幅で記したコース説明書なるものを頂いた。ドライバーが路面の様子を知るにはいいのだが、ミスコースを恐れるナビには何の足しにもならない。
 「全ての競技者に平等なコース」というオーガナイザーの配慮らしいが、私にとってはどうなんだろう?
不安が高まるが、顔になんて絶対に出せない。

 さっそく独りで部屋に閉じこもり、IGNの上に大まかなコースを辿っていった。気がつくと4時間がたっていた。それでもまだまだやることが残っている。作業初めに感じていた焦りはここまで来ると、なるようになれ!と開き直りに変わっていた。

 友川はというと・・・・。
彼女は人の3倍気が利く。それにすべてのことに対して彼女の持つエネルギーをフル稼働させているので、いつか神経がまいってしまう日が来るのではないかと心配になるくらいだ。私が4畳半くらいに広がったIGNと格闘している間中、
「あれしなきゃ、これもしなきゃ!」
と、部屋を出たり入ったりして常に動き回っていた。
 私はそういうときほど友川のやりたいようにさせておく。私にできることは、彼女が求めた時にその要求に100%完璧に応えることだ。変な気遣いは無用。
 
 作業をしながら去年の自分を思い出していた。
必要なことと、そうでないことの区別がつかなくなっていて、まったくバカバカしいミスを繰り返していたように思う。
 今年は「パリダカ」という言葉に頭でっかちにならないよう、うまく自分自身をコントロールしていきたいと思う。

 焦らなくていい。ゆっくりと集中していこう。

スタートまであと2日・・・。


*人権・・・レース車両に車検があるように、競技者にも様々なチェックがある

*プロト・・・とことん改造していいクラス

*IGN・・・・100万分の1の地図




2009年6月10日水曜日

1月1日 午前4時

 今年はパリダカ史上はじめての試みで、アフリカ大陸のみでの競技となる。
セネガルの首都ダカールからスタートし、パリダカにはなじみのあるニジェールの町アガデスを折り返し、再びダカールに戻る、というコース設定だ。 そういうわけで私たちエントラントはスタートに向けてパリからダカールに移動しなければならない。
 

 1月1日の早朝。
ドゴール空港には多くの競技者やメカニック達が集まっていた。
出発を待つロビーは再会を喜びあう人たちの高揚感で充満している。
「ラリー」という言葉に「再び集う」というという意味があるように、私はこの再会の瞬間がとても好きだ。
 
 ロビーには、去年同じ日にリタイヤとなった横川氏もいる。横川氏は盗賊からマシーンを守るため、あのサハラ砂漠に一人残り、自分の落したものに寄ってきてくれた「ふんころがし」を話し相手にし、残り少ない水をチビチビ飲みながら救助されるまでの3日3晩を何の不安もなく過ごしたというものすごい経験の持ち主。彼は今年は日産テラノで長谷見昌弘氏のナビとして参戦するそうだ。

 今年のキャンプ地も楽しくなりそうだ!

 現地時間午後3時半。ダカールに到着。

「三菱インターナショナル チーム 御一行様」を迎えにきたマイクロバスの屋根の上には、私たちの荷物が見事に山積みされていく。もの凄くアフリカっぽい光景だ。

 そして、私の予想をはるかに超えた荷物を載せたバスがのろのろと走り出した。
 
バスの揺れ。
体にまとわりつく潮風。
そして、けだるい疲れさえも私に緩い幸福感を与えてくれていた。
この「のろのろ」と「ゆるゆる」した感じ、しばし堪能。

 40分ほどでホテルに到着。
意識したわけではないが、その緩みが一気にピンっと張ったものに変わる。


いよいよ戦いが始まるのだ・・・・!
 


 
 

2009年6月9日火曜日

リタイアの痛さ

 その1年前、一足先にパリダカに初参戦し、リタイヤの屈辱を味わっていた友川の「とにかく全てが凄い」という言葉と、「世界で最も過酷なレース」という謳い文句通りに、私の初戦は3日目にして苦戦を強いられ、そして、7日目の真夜中、サハラの砂漠に飲み込まれてしまった。
   

 

 カミヨンバレーを待っている間、ひんやりとしたサハラの砂をすくい、サラサラと手のひらからこぼれおちていく様を何時間も味わっていた。 あの感触は今でも手のひらに残っている。あの日、砂から教えてもらったことはとても多かったのだ・・・・。 ドライビング技術やナビゲーション技術は勿論だが、もっと泥臭いこと、例えば、日常ではないところだからこそ垣間見える自分や相手の本質。それを知ることの怖さに打ち勝つこと。お互いを信じ、思いやる心の強さ。感情のコントロールの難しさ、などなど・・・・だ。大人なんだからって思うかもしれないけれど、大人だから難しいということもある。    



 マシーントラブル発生から4時間後、ようやくカミヨンバレーが砂丘の奥から現れた。

私は小さいので、荷台ではなく運転席に座らされたのだが、フランス人ドライバーとナビゲーターの間に挟まれながら、ずいぶん長いこと彼らの怒鳴り合いを聞かされていた。しまいにはナビがルートブックを放り出し、隣で大いびきをかきだす。

「おい、次の指示をしてくれ」
いつの間にかナビをやらされていた・・・。眠いのに・・・・。
結局、次の日の昼ごろまかかってモーリタニアの砂丘に残されていた競技者達を数人救い出し、やっとの思いでビバークに到着。  

「来年もまた会おうな!俺達いいコンビだったと思わないか?」
というドライバーの問いに、
「残念だけど・・・・来年は完走するつもりだから、コース上であなたに会うことはないと思うわ!」
と即答。うん、絶対に完走しなければ!と心で叫んだ。






 *カミヨンバレー・・・・リタイヤした競技者を救出するトラック

2009年6月8日月曜日

冒険の扉





 初めて“パリダカ”という言葉を耳にしたのは、いつだったのだろう?
TVで報道されていたのをすごいレースがあるものだと感心しながら、そして、自分には無縁なものとして見ていた記憶がある。そのころの私にとって、モータースポーツとはただTVで見るだけのものだったのだ。
 それが、ひょんなきっかけでナビゲーターに起用され、インターナショナルのラリーレイド(オーストラリアンサファリラリー)に参戦するチャンスが舞い込んだのが7年前(1990年)・・・。ドライバーである友川真喜子が、私にナビゲーターとしてのチャンスを与えてくれたのだ。
「あんたなら大丈夫。絶対にできる!」
その言葉で私の中の何かがはじけてしまったのである。


 以来、私の人生は大きく変わり、「日本人レディースチームとしてのパリダカ初完走」の夢が芽生えるまでにそう時間はかからなかった。

 何度かのレース経験を重ね、私が初めてパリダカの「冒険の扉」を開けたのは1996年。
ポジウムに上がった時の興奮!
「サビーヌさん、私、扉を開けちゃいました!」って何度も心の中で叫んでいた。
      
  *「冒険の扉」・・・パリダカ創始者である故ティエリー・サビーヌ氏の言葉。
             『望むなら冒険の扉まで連れて行こう。だが、扉を開くのは君だ』